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2013/05/30

{ DIY } 限りなく透明に近いブルーのビーズ

《夏にむけて こんなカラー》



I'm Into it な遊びはビーズ。
部屋でひとり、黙々と作業する。


日暮里の問屋街に行ってビーズをたくさん買ってきたのさ。
つくり方を調べに、今度の休みは図書館に行きましょうか。





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2013/05/29

明け方に気がついた

執筆欲というたいそうなものではなく、

たんじゅんに書き欲だけども。


それでも、燃え上がってきた。


さいきん。


たぶん。


おそらく。


きっと。


たんじゅんに。

2013/05/28

1984年のアーウィン・ショーとわたし

《『緑色の裸婦』より》

敬愛する作家が71歳で死んだ年、
自分がこの世に生まれたことを今夜知った。


まったくのこじつけでしかないのだが、
こういった偶然のナンバーに、わたしは影響され易い。

わたしの好きな人の、『好きな人』 が、
『わたし』かもしれない、という噂を聞いた時みたいだった。

好きな人を遠目でみているだけの、
『片思いのはじまりのビジョン』だったけれど、
いつしか、その好きな人がわたしの隣りに座っていて
お互いにジッと目を見つめながらおしゃべりしているような、
そんなイメージに変わった。

乙女チックに言うと、今夜はそんな気分だ。





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2013/05/27

バランスをとる時は白い花々

《スプレー菊 と トルコ桔梗》

わたしのような、しがないフリーターでも、それなりに日々は忙しく、

それなりに肉体に疲労も溜まったりするし、
うまくいかない職場の人間関係に考え込んでしまう日もあったりする。

こういったことは歳と共に増えていき、必然的に免疫力もついていく。


けれど、免疫力があるからといって100%処理しきれる訳でもないから、

微々たるストレスが知らず蓄積されていき、飽和する直前まで気がつかない。
その影響で衣食住における習慣の歯車が徐々にずれていき、
さいごは心身のバランスを崩してしまうのだ。



《ベッドサイドに置こう》

暴飲暴食をしてしまうとか、いつもと同じ時刻に起床できないとか。

夜もなかなか寝付けないとか、無益なネットサーフィンをダラダラと続けてしまうとか、
メリハリのない生活習慣が続いてしまった時は、
『そろそろ危ないぞ』と、心身バランスの危険信号が点滅している時だと思っている。

だから、本当にダメになってしまう前に、わたしは白い花を買う。

日々のバランスをとる為に『花を愛でる』みたいなことが、

わたしには合っているみたいだし、花を買いに近所の花屋まで歩いていく時間や、
帰ってきてお気に入りの花瓶に花を活けるような作業は、
雑になってしまった日々の暮らしに丁寧さを思い出させてくれるから。




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2013/05/26

{ とり食堂 } おうちでつくる柚子胡椒

《 見よ! このエメラルドグリーン! 


Japanese Citron and Green Chili Sauce 


去年の冬に八百屋で立派な大分県産の青唐辛子を数百本と、

熟した柚子を大量に購入していました。

半分は、そのまま冬につかって、

もう半分は冷凍庫にストックしておいたのです。

というわけで、

お宝発見という気持ちで冷凍庫から取り出した材料で、
夏用の自家製『柚子胡椒』を作りました。





《 種はけっこう入ってるぜよ 》


『柚子胡椒』の作り方はとっても簡単で、

青唐辛子を洗って、まずはひたすら種を取り除く作業から。

この種取り作業は時間が掛かりますが、もやしの根取りと同じです。

注意してもらいたいのは絶対に台所用の厚手ゴム手袋をはめて作業すること!
素手で唐辛子の種取りをすると、唐辛子のカプサイシンで
両手が野球のグローブみたいに腫れ上がります…。
(何を隠そう、わたし経験者です。)

「大丈夫でしょ〜」という楽観は命取りです。

唐辛子にやられると、両手が腫れ上がり
ヒリヒリ痛くてジンジン熱くて眠れなかった程です。

あとは種を取った青唐辛子の山と、柚子の皮、食塩を、

全部一緒にフードプロセッサーにかければ出来上がり。

防腐剤なんかいれなくても、冷蔵庫保存で半年は食べられます。






《 赤がチラホラ これで佃煮もつくっちゃう 》

ちなみに赤唐辛子でも、同様のレシピで『赤・柚子胡椒』が作れます。


わたしは赤唐辛子を手に入れた時は、

お醤油で原型なくなるくらいじっくり煮込んで『唐辛子の佃煮』にしてしまうので、
『柚子胡椒』は青ばかりですが。
(『唐辛子の佃煮』も万能調味料で本当に美味しいのです。)

唐辛子と柚子の清々しい新鮮な味わいは、冬は鍋料理、夏は冷奴や蕎麦、

オールシーズンいけるのは餃子やサラダドレッシングなど、とにかく万能。

辛いけどね!


手作りの『柚子胡椒』を味わってしまうと、

もう既製品を二度と食べられないです。

嘘みたいに簡単なので、是非。




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2013/05/23

{ DIY } サマーファンキーミニスカート

《柄合わせは失敗したけどね》

かなり可愛いと思って、ド派手な柄パンを去年買った。


でも、ここは日本で、しかもわたしは海もない関東の内陸部に住んでるので、
いくら夏と言ってもファンキー過ぎるだろうということで、履けなかった。

近所に住む友人のY氏は、服飾専門学校を卒業したファッション関係の人なので、

パンツをミニスカにリメイクする方法を教えてもらった。

布と布の境目に同じ柄を合わせて、つなぎ目を自然に見せる『柄合わせ』は

途中でやるのが面倒くさくなってあきらめたけど、
久しぶりに使ったミシンさばきも上々で、案外うまく縫えてサイズ感もバッチリ!

今年の夏は、いつになくファンキーでいこう。

もうアラサーなんだけどね。




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2013/05/13

{ とり食堂 } 洋風 タコめし


《ふっくら炊けたぜよ》

TAKO-MESHI

刺身用のタコを80グラムほど買いました。


ほんの少量でもタコは味がしっかり出るので、

夕飯と翌日のお弁当の分で、2合のタコ飯を作りましょ。

タコ飯って炊飯器で和風に炊いてもいいけど、

以前見たネットレシピでパエリア風にタコ飯を調理している人がいて
それ以来、わたしは和洋折衷の味付けで炊きます。



《生米から炊くぜよ》

みじん切りにしたエシャロットと玉葱をガーリックオイルでじっくり炒め、
香りがしてきたら、千切りの生姜を加えてまたじっくり炒めます。
生姜はシャキっとした歯触りが残るので、千切りの方がいいかな。

ガーリックオイルを使うと洋風感が増すし、生姜はちょっとした辛みになります。

材料をオイルで炒めたりしないで、全てを直接炊飯器にいれて炊いたら
さっぱりした和風のタコ飯になりますよ。

それから生米を加えて、米が透き通ってきたら、タコを加えて、お塩を少々。

そのまま一度火を止めて、フライパンに蓋をして10分くらい蒸らすと、
美味しさが全体に行きわたる(ような気がする)のです。

10分経ったら、フライパンの中身を米炊き用の土鍋にうつし、

2合分の昆布出汁を入れて吹きこぼれるまで中火にかけます。
土鍋がボコボコ吹きこぼれたら、弱火でさらに3分。
あとは火を止めて、10分待ったら出来上がり!

蓋をあけると、タコの香りがブワーっと立ち上ります。あ〜至福。。

お米がふっくら炊けているか確認しつつ、ここで塩加減も調節します。
(出汁に味をつけ過ぎていると、タコの旨味を打ち消してしまうので。)

さいごに盛りつけで、炒りごまと青さ海苔をパッパ。できあがり!美味ぃ〜。


パエリアの用にフライパンで最後まで炊くことも出来るけど、

土鍋で炊くとちゃんと ”おこげ” が出来るのです。
それも食べたいのよね。



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2013/05/05

FOREVER HERO 〜Memory of MCA and Beastie Boys〜

《 『Beastie Boys Anthology The Sounds of Science』(1999) 》

 わたしがBeastie Boys(ビースティーボーイズ)の音楽を好きになったのは、たしか15歳。
 2000年3月、受験を終えたばかりの中学3年の冬休みだったと思う。

 彼らのの歴史の前半部の締めくくりから中盤期に差し掛かった時期に位置づけられたこのベストアルバム『Beastie Boys Anthology The Sounds of Science』(サウンドオブサイエンス)は、その冬の数ヶ月前1999年10月に発売されたばかりだった。
 わたしの地元にあったHMVの視聴コーナーでは、年が明けた後もトップアルバムランキングのコーナーにこの2枚組のベストアルバムが置かれており、このアルバムの視聴体験こそが、わたしとBeastiesとの最初の出逢いだった。
 その当時の自分にとって、CDショップに一人で来ることも視聴コーナーで立ち止まり洋楽のアルバムを聴くことも、高校生活がはじまる序章のようで少し大人びた冒険のような気分だったのをよく覚えている。

 わたしは真面目にもはじめから聴いたのだが、
実は、1曲目『Beastie Boys』での荒削りな爆走パンクを聴いてもすぐにはピンとこなかった。けれど56秒で終わってしまうオープニング曲だったので、とりあえずヘッドフォンをはずさずに2曲目の『Slow And Low』まで聴くことにした。何よりも、CDショップの視聴コーナーに立ち寄り好みの音楽を選んでいるという自分の姿自体に多少酔っており、すぐにそこから離れるのはもったいないなどと考えたのかもしれない。

 この『Slow And Low』の重いビートとスローラップが流れ出したイントロ部でも、何かが心に引っかかるような、好意にも似た微妙な感触がチラチラと見え隠れしてはいた。けれどどちらかというと見知らぬ音楽だった『Slow And Low』をなんとか理解しようと身構えるようなスタンスだったと思うし、格好良いと思えどまだ鼻先がムズムズするくらいだったのだ。
 先に言ってしまうと、この数十秒後、鋭い雷がわたしの脳みそに直撃するような、衝撃的でドラマチックな瞬間がおとずれることになるのだが、『Slow And Low』までの自分はまったく予想もしていなかったはずだ。むしろもう視聴に飽きてきて、ヘッドフォンをはずそうかどうしようかという所まできていた。
 そしていよいよ3曲目『Shake Your Rump』がヘッドフォンから流れ出してしまったのだ。



《 Shake Your Rump (1989) / Paul's Boutiqueより 》



 ドラムロール!!!その瞬間、そこが衝撃の瞬間だった。

 わたしの中のリスニングボルテージが一気に最高潮に跳ね上がり、自分の感性の全てのランプがまばゆい程に点滅し、何かを警告しているかのようだった。
 それはこのBeastiesというグループとの出逢いが間違いなく最高のものになるという確信のサインのようであり、それまで優等生路線でやってきた自分が、その後の人生で長く続くことになる痛々しい劣等生路線に趣旨替えしてしまうという、悪い予感の赤信号でもあったのかもしれない。

 イントロからサビに突入していく流れのあのグルーブ感は、これまで数百回も聴いた上で迎えた今日だったとしても、思わず縦ノリに身体が動くし、恥ずかしげもなくB-BOY気取りのよたよた歩きで粋がりたくなるような興奮が駆け抜ける。

 そして30秒以降再びのドラムロールと『It's the joint!』のフレーズが合図となって、わたしは一気に《Beastie Boys的パンキッシュ悪ガキパーティー/人生は最高だぜスペシャル》といった彼らの音楽の世界に引きずり込まれてしまったのだ。

 まだ乳臭い顔をした化粧気のない中学生だったわたしはその日、
Beastiesが醸し出す悪ガキ連中なムードと、ヒップホップ・ラップという新たな音楽ジャンルを知ってしまった衝撃ではっきりいって精神的バージンを奪われたようなものだったと思う。(言い過ぎか?)
 ちなみにこの曲がリリースされたのは、その衝撃的な出逢いの日からさらに遡ること10年前の1989年で、わたしがまだ5歳の頃であった。

 彼らの書くラップ詞はスラングだらけなので、日本の義務教育的英語教育しか受けてこなかった中学生のわたしにとっては本当に意味不明だった。だから
最初の衝撃のほとんどは、彼らが作り出すサウンド”だけ”だったのかもしれない。しかし例えほとんど理解出来なくても、15歳のわたしにはBeastiesはとびきり格好良く思えたし、29歳の今年であってもそれはまったく変わらない。

 このブログを書いている現在は、努力の末ではあるが、だいたいの代表曲なら歌詞世界を理解できるようになっている。けれど中学〜高校時代の自分はそうではなかったから、
Beastiesの男の子っぽいエッチな感じの歌詞を読みながら英語辞書をひくしかなかった。 
 今思い返すと、卑俗な隠語や淫猥な言葉の意味を辞書を片手に真剣に調べる女子高生の姿はもはやギャグみたいなものだが、彼らの格好良さに憧れていた当時は英語も楽しくなりはじめていたし、訳も分からず頑張っていたのだと思う。

 『Shake Your Rump』(ケツふれよ)の歌詞に関して言うと、その後、高校生活に突入してからの努力によってわりとはやく理解できたし、
衝撃フレーズであった『It's the joint』の『ジョイント』の語源がマリファナを意味するスラングだということをも理解した。
 新たな音楽ジャンルとBeastiesと二つの出逢いを同時に経験してしまったことは、わたしにとって鮮烈極まりない音楽的転換点の原風景のようであり、その衝撃度によって心を打ち抜かれてしまった思春期の女子であったわたしは、まさにこの『It's the joint』のワンフレーズによってBeasties中毒者になってしまったということだろう。
 

Ad-Rock, Mike D)My man MCA's got a beard like a billy goat

(MCA)oowah oowah is my disco call
Ad-Rock MikeD)MCA!
(MCA)hu huh I'm gettin rope y'all
(Ad-Rock, MikeD)Routines I bust rhymes I write
(MCA)And I'll be busting routines and rhymes all night
(Ad-Rock)Like eating burgers or chicken or you'll be picking your nose
(3MC)
 I'm on time homie that's how it goes
 You heard my style I think you missed the point
 it's the joint

 俺のダチMCAの髭はまるでヤギみたいでさ
 フゥーッ、フゥーッ、そんでこいつがディスコでの俺の叫び方

 (MCA!)
 お前ら俺にもコツがわかってきたぜ 
 ライムのブチかまし方とかラップがわかってきたのさ 
 だから一晩中そのやり方でラップをぶちかましてやるんだ 
 ハンバーガーやフライドチキンを喰らっちまう感じでさ 
 それともお前が鼻をほじるみたいな感じにかな
 時間通りさ相棒 そんなもんさ

 俺のやり方知ってんだろ だけど感じなもの忘れてるよお前
 マリワナさ! 




《 左からMike D、Ad-Rock、MCA (1983年頃?)》

 Beastie Boysはアメリカニューヨーク出身の3MCヒップホップバンドだ。

 メンバーは、Michael "Mike D" Diamond(マイクディー)Adam "MCA" Yauch(エムシーエー) 、Adam "Ad-Rock" Horovitz(アドロック)の3人で、結成は1980年代まで遡る。

 2013年現在では彼らの音楽ジャンルはヒップホップであり、ラップ主体のミュージシャンとして表記されることが多い。実際それに間違いはないのだが、彼らの音楽の変遷を知らない方々にとっては多少の誤解が孕むことがある。ヒップホップ・ラップ・MCとしてのプレイヤー姿での露出が後期のミュージックビデオや音楽イベントでは主になってしまったこともあり、単に破天荒なヒップホッパーとしての認知しかしていない人がまだまだ少なくないということだ。

 しかし彼らのミュージシャンとしての源泉を辿っていくと、そこにはロックがありパンクがありハードコアがある。そしてヒップホップグループではなく、ヒップホップバンドという表記からも分かる通り、彼らの起源が楽器演奏やソングライティングによるバンド編成だったことが分かる。そして長いキャリアの中で、数々の音楽ジャンルをフュージョンするようになっていくのだが、その経緯の中でプロダクションやミックスなども独自で手がけていくようになる。つまり何が言いたいかというと、彼らの破天荒さに目を向けるのはかなり表面的な解釈でしかなく、むしろ称えられるべくは、芸達者なミュージシャンとしての豊かなキャリアなのではないかとわたしは思う。

 1980年代前半のニューヨークブルックリン、ここが
Beasties結成の創世記にあたる。
 ハードコアパンクバンドThe Young and the Useless(ザ・ヤング・アンド・ザ・ユースレス)において、友人のJohn Berry / guitar(ジョン・ベリー / ギター)とKate Schellenbach (ケイト・シュレンバック / ドラム)と一緒にバンド活動していたのが、当時まだ学生だったベース担当のMCAと、ボーカル担当だったMike Dだった。その後このバンドにAd-Rockが加わりJBとKSが抜けて、今も続くBeastiesとしての3人編成になっていったらしい。
 彼ら自身がインタビューなどでも話している通りこのThe Young and the Uselessが、Beastie Boys結成の直接的な起源なのである。彼らの型破りで悪ガキな雰囲気や、現在まで連綿と続くサウンドトラックの中核にある喜怒哀楽シャウト的な激しさなども、この頃のハードコアやパンクロック魂によって染み付いたのだろう。

 この創世記の
Beastiesを理解する上で欠かすことができないのが、1965年結成のThe Velvet Undergroungなどを代表したニューヨークアンダーグラウンドミュージックであり、そこから派生した60年代のニューヨークパンクである。そしてそのニューヨークパンクを独自に育てていった土地がイギリスのロンドンであり、Sex PistolsやThe Clashなどで有名なロンドンパンクの歴史に繫がっていく。わたしの場合、そこからさらにアイルランド出身のケルティックパンク(トラッドパンク)The Pogues(ポーグス)まで興味と好みが流れていった。
 ちなみにBeastie BoysとThe Poguesは、わたしの個人的な音楽史の中でも外せない二つのレジェンドバンドでもある。Beastie Boysとの出逢いが15歳だったことに対し、The Poguesとの出逢いは20歳まで時期を待つことになるのだが、一人の音楽ファンとしてパンクロックシーンをちまちま調べていくと、この二つのバンドがまったく同時期の1982年頃に本格的なバンド活動をスタートさせていることに巨大な縁のようなものを感じてならないし、Ad-RockがThe Poguesのシャムロックマーク(三つ葉のクローバー)のTシャツを着用している80年代当時の写真を見つけたりすると、ますますわたしのオタク心に火がついてネットサーフィンは止めどなくなってしまった。「結局明け方まで眠らず調べて、今日も徹夜…」みたいな20代前半の学生時代を過ごしたのだが、こういった興味のある特定のジャンルに関するある種のゴシップ根性みたいな自分の探究心は30代を目前にした現在もまったく静まることがなく、むしろインターネットが発達するにつれ症状は悪化しているような気もする。豊かな生活設計のためにも、この集中力と粘り強さをもっと他の分野にも活かせたらどんなにか楽なのにと嘆くばかりで、一向に進歩はないのだが。(ちなみに、1960年の発祥から現在まで続くパンクロックシーンに関するまとめファンサイトは国内海外問わず大量にあるし、現在ではWikipediaのパンクロックのページも、かなり整頓されていて読み易いのでオススメだ。)



Beastie Boys on Being Stupid / ABC Radioによる1985年の貴重なインタビューテープ 》



 こうした音楽シーンの移り変わりのようなものを読んでいくと、若い頃の
Beastiesのことがようやく理解できるようになってくる。彼らが思春期のティーンエイジャー時代を過ごした1970年代中盤から80年代のニューヨークは、現在よりもさらに刺激的だったが、反面でとても危険な街だったのだ。しかし、おそらく後のソングライティングへの着想となるようなとんでもない日常の連続も若さに任せておもしろがりつつ体験していたのだろうし、彼らが音楽に興味を持ち、放課後に友人とバンド練習をはじめた経緯などが、当時のニューヨークにおいて特別めずらしいことではなかったことなども分かってくる。
 少し具体的な話しをすると、ニューヨークブルックリン育ちの白人ユダヤ人であるBeastiesは、パンクロックとはまた別の系譜でメジャーになりつつあったニューヨークブロンクス地区の黒人ヒップホップミュージックとの出逢いを経て、現在の彼らのサウンドであるロック・ヒップホップ・ジャズなどのジャンルフュージョンな独自のサウンドに移り変わっていった。ちなみにブルックリンとブロンクスはニューヨークのマンハッタンを挟んで向かい側に位置しており、さらにはマンハッタンこそがニューヨークジャズの中心だ。こうして羅列すると、それぞれの音楽ジャンルも土地も言わばお隣さんみたいなものに見えるし、お互いのカルチャーが混ざり合い影響し合うのはすごく当たり前のようにも思えるかもしれない。しかし現在でも尚、各地区や地域によって住んでいる人種が異なり、さらにはチャイナタウンやリトルイタリーなどに代表される国ごとの小さなコミュニティーが無数に、かつ色濃く存在しているのがニューヨークだという事実もある。2005年と2007年のたった2回のニューヨーク滞在経験しかないわたしですら、ニューヨークにおいて人種やコミュニティーがはっきり存在している(決して差別的に”分かれている”わけではないが)ことはたびたび感じた。人種のサラダボウルという言葉は決して大げさな表現ではないのだ。ニューヨークというボウル皿の中でそれぞれが渾然一体となって暮らしているが、やはりトマトとレタスは異なる野菜だということだろうし、いくらキュウリとピーマンが同じ緑色をしていたとしても、味も良さも微妙に違うということなのかもしれない。
 こうした面から見ても、1980年代のニューヨークミュージックシーンがボーダレスな状況ではなかったことは、容易に想像することができる。だからこそ、過酷な歴史を背負ってきたアフロアメリカンを祖先に持つ黒人たちの音楽であり、彼らのカルチャーそのものであったヒップホップという音楽に、裕福なユダヤ人の家庭に生まれ育ったBeastiesの3人が参入(突撃?)していったことは、世界の音楽史を大きく動かした瞬間として位置づけられているのだ。もちろん、当時20歳そこそこだった悪ガキ3人に、こんなにも重大な自覚があっただろうなどとは決して思わない。しかし一方で歴史は刻まれてきた。彼らが歩んできた30年以上にも及ぶキャリアこそが、彼らが偉大なミュージシャンであることの証明であり、常に柔軟さを忘れない革命的なパイオニアである記録なのである。



《 お気に入りのTシャツを着た昨年の夏 》

 そういった訳で、15歳からBeastie Boysに心酔してきた熱狂的ファンの一人としては、Mike D(ドラム)MCA(ベース)Ad-Rock(ボーカル、ギター)のバンドマンとしての姿にも是非注目してほしいと思うし、悪ガキがそのまま不良オヤジになったようなビジュアルやスタンスとは裏腹に、そのミュージシャンとしてのマルチタレントぶりを知ってもらえたら嬉しい。

 しかし、難しいことは考えず「ただ聴くだけでオッケー!」と言いたい自分のほうが、正直な気持ちかもしれない。聴いたら最後、誰しも黙っていられないほど興奮してしまうだろうし、きっと彼らのサウンド世界で踊り出してしまう人は続出すると確信しているからだ。
 つまり、わたしにとって彼らの格好良さは、本当に!本当に!本当に!本当に筆舌に尽くしがたく、誰かに好きなバンドは?と質問されたとしても「Beastie Boys最高だよね!もうほんとだいすき!!ちょーかっこいい!!!」としか表現できずにきてしまった過去もある。しかも今夜このブログに書き綴ったことは、おそらく、今まで誰にも話したことがなかったことばかりだ。
 ビースティーサウンドに身体を揺らし、自分の部屋の中で踊り狂い、首が折れる程のヘッドバンギングをし、心の底からの唸り声をあげてリスペクトを表現することしか出来ないで、わたしはこの歳まできてしまったのかもしれない。それほどまでに彼らの音楽がわたしに与えた影響は大きく、Beastiesへの情熱の温度が高すぎるために、自分でも感動の度合いが把握出来ないでいるのかもしれない。至って、シンプルに、重傷だ。
 しかし、「Beastie Boysが好きだ!」という鮮烈なエモーションがあるだけなのかもしれないし、それで満足している自分もいたりする。


 こうして、『言葉で表現しきれるはずがないのに、あまりの魅了ゆえに、語りたくなってしまうもの』としての音楽のことを考えると、やはり音楽こそが真に自由な高みにある芸術表現なのではないかという結論に、いつも達する。もしくはライヴという表現方法がそう思わせるのだろうか。演劇にしろ音楽にしろ、目の前で起きていることを自分自身が体験することで初めて鑑賞が成り立つライヴという表現には、無限の可能性と未知なるスリルを感じてしまうのだ。
 しかしわたしの場合、幼い頃より育んできた表現方法の根源は、まちがいなく『会話と文章』だと思う。これは、わたしという人間を、わたしという人間たらしめるための心と身体の絶対パーツの一つなので、多少の不自由を感じ続けているが、嫌でも一生の付き合いをしていくしかないだろう。だからちょっと別枠だと思う。では、他の分野は一体どうだろうか。
 わたしが実際に学問として学んだことは『映像と映画』だった。そして映画からの経緯で『演技』に系統しニューヨークまでアクティングを学びに行った過去もある。その後、『絵画や写真』を鑑賞することによって表現姿勢としてのストイックさについて考える機会を得たりした。
 こうしてまとめると、様々な表現との関わり方は案外良い流れできているし、その時々で多くの価値あるものを学んできたような気がする。けれど一方で、これらの表現にそって考えすぎたあまり、脳みそから発火し爆発しそうな危機感を感じた経験もある。まるで抜け出せない苦行に嵌ってしまったような状態だったのだ。
 今ではその頃の自分がどんな状態だったのか理解できるようになった。簡単に言うと、わたしが自分の考えを人に伝えるツールとしては、『映像』『映画』『演技』『絵画』『写真』のどれとも相性が合わなかったというだけなのだ。至ってシンプルな話だ。
 しかし、若い時は周りの目を気にしてばかりいる時期もあったし、自分自身がどうしたら満たされる人間なのかという根源的な居心地の良さも発見できない時代でもあった。表現者でありたいという自意識だけが先走り、『では何を、どんなふうに』というディテールにまで集中力を保つことが出来なかったのだと思う。しかし、いつも何かに焦って過ごしていた若い頃のわたしは、そんな自分の中身のなさや思慮の浅さに目を向ける余裕さへも持っていなかったのだ。
 きっと、幸せを噛みしめる尺度が自分のなかに備わっていなかったのだろう。それを手にしたのは27歳の時で、なんとまあ時間のかかったことかと自分でも呆れてしまう。
 誰かの評価に自分を反射させることでしか、自分の輪郭を捉えようとしなかったのだと思う。褒められることを求め、褒められることこそが自分の中での”正しい”幸せだと勘違いしていたのだ。自分で言うのも変な話しだが、まあなんと哀れな小娘であったことか。
 こういう20代の葛藤を非常に馬鹿らしい話しと思う方もいるかもしれないが、今よりももう少し若い頃のわたしは、あまり強い人間ではなかったということなのだ。
 組織や人間関係、肩書きなど、いつも何かに依存し何かに所属することで自分の価値を計ろうとしたり、安心感を得ようとしていたのだと思う。もちろん、ハリボテの安心では満足感は得られないということにすら、当時は気がついていなかった。だから何かに依存することの代償としてこうむる自分にとっての不自由さの存在に気がつかず、それらが透明な蛇のような姿をしてわたしに巻き付いていった。そうしてきつく巻き付いた不自由さという蛇に足を取られ、だんだん身動きが取れなくなり、ついには口も塞がれ息が苦しくなり、視界も奪われ、限界値がやってきてしまうのだ。不自由さに完全に縛られてからではもう遅い。そこからいくら考えたとしても、巻き付いた蛇を取り払う方法は見つからないからだ。答えのでない考えを必死に続け、そこから抜け出そうともがくうちに脳みそから発火し、あげく心も燃え尽くされて、自分が消滅してしまった。そしてそれが今から3年半前までのわたしの姿だったのだと振り返る。

 だからこそ、ここではわたしにとっての『音楽』の話をしたいのだ。

 改めて振り返ってみると『音楽』だけは、ずっと苦しまないで付き合ってこられた。『音楽』だけはいつの時代も、わたし自身がありのまま、素っ裸になれるような開放感をくれたし、「気持ち良ければ何でもいいじゃん!」的な奔放な自由さを許してくれたような気がする。前述の『映画』や『演技』などの表現においては、わたしはプレイヤーとして関わっていたけれど、『音楽』ではいつも100%リスナーとして楽しんできたことも良い関係を築いてこられた理由かもしれない。
 『映画』や『映像』はプレイヤーとして悩んだ時間が長過ぎたのだろう。若い頃は年間300本以上は映画を観ていたし、とにかく映画という表現がおもしろかった。しかし、いつからか映画が好きではなくなってしまった。もしかしたら嫌いになってしまったのかと思った時期もあった。
 16歳から意識しはじめた映画ではあったけれど、ちょうど10年後の26歳になった年に、結局わたしはその道を進むことをやめた。
 とにかく映画のことを考えたくなかった。観るのも嫌になっていたし、『ソフィアの夜明け』を渋谷のイメージフォーラムで観たのを最後に、映画館にも行かなくなってしまった。
 そしてそんな自分の状態は、つい去年まで続いていた。
 先ほど書いた通り、『会話と文章』が限りなく自分自身そのものであるならば、生涯の友人にあたるのが『音楽』なのだろう。最高の時も最悪の時も、どんな時でも関係なく、ただわたしがわたしとして存在しているだけで音楽との関係性は成り立っていた。きっと、切っても切れない腐れ縁のようなものだと思う。
 そしておそらくわたしは、『映画』という理解不能だけどとても美しく魅力的な恋人と出逢い、長い間をかけて翻弄され過ぎてしまったのだ。しかし恋人はパートナーにはならなかった。いくつかの失恋を通して、いつか自分のもとを去ってしまうのが恋人だということをわたしは知ったのだと思う。
 そして人生をかけて愛を育む家族には未だに出逢えていない。
 もしかしたら現在までの3年間、新たな仕事として関係してきた『食材と料理』がわたしにとっての家族なのかもしれない。けれど、それをもう一度確かめる為にも、今年の暮れ頃には一度仕事を休んでゆっくり関係性を考えてみようと思っている。



《 Gratitude (1992)/ Check Your Headより》



《 Skills To Pay The Bills (1992)/ Check Your Headより》



《 Root Down (1994)/ Ill Comunicationより》



 15歳のあの日、視聴コーナーに立ち尽くしたままの中学生のわたしに、話しを戻そう。

 『Shake Your Rump』に衝撃を受けたわたしは、MCAのエレキベースが冴え渡る4曲目『Gratitude』を聴きメタルの入り口に触れ、ジャズ要素が多分に含まれた5曲目『Skills To Pay The Bills』6曲目『Root Down』まで、身体の中にふつふつと沸き上がる興奮のまま一気に聴き続けた。そして、最後にはCDを買う意志を固めたのだ。

 当時はまだ中学生で自分の自由になるお金などほとんど持っていなかったし、『The Sounds of Science』は3,500円もする超豪華ベストアルバムだった。アンソロジーアルバムという体を成していたので、CDの他にも過去のアルバムやレコードジャケットのアートワーク集、
Beastiesの伝記的小冊子なども含まれていたのだ。
 本気で「高い!」と感じたし、正直買うのをしばらく迷った。しかしあの時買わずに帰り、そのままBeastiesの存在を忘れ、彼らの音楽を聴き続けない未来もあったのかと想像すると、それはもはや絶望でしかなかったと額にじっとり脂汗が滲ませながら今夜回想する。
 Beastiesとの出逢いが運命だったのかもしれない、というニュアンスの話しは面倒くさいので言及したくない。ただ事実として残っていることは、2000年3月のあの冬休みの日、わたしはBeastie BoysのCDを買い、その後Beastiesのファンになっていったということだ。
 そして買う意志を固めた上で、欲張って「もう一曲だけ!」と視聴コーナーで聴いたディスク1のラスト21曲目『3 MC's & 1 DJ (Live Video Version)』が、その日から延々と続くことになるBeastiesインパクトの序章の決定打となったのだった。


《 Rhymin' & Stealin' (1986) / Licensed to Illより / デビュアルバムの一曲目クレイジー時代》


 この思い出を振り返る時にいつも残念なことが一つだけある。それは
Beastiesのキャリアの初期で、彼らの音楽に出逢えなかったということだ。それはつまり1984年生まれのわたしより、彼らがずっと年上だったということでしかない。
 最初に手にしたのがアンソロジーアルバムであったことも、時を経るごとに悔しさのような妙な感情に変わっていったので、これまであまり人に話したくもなかった。わたしが彼らの音楽に出逢った時、すでにBeastiesは自分たちのキャリアを懐かしむようにプレイバックしていたなんて、温度差がありすぎて悔しい。
 MCAは1964年生まれなのでわたしよりもちょうど20歳年上だし、Mike D 1965年、Ad-Rock 1966年とやはり20年程の差がある。本心を語れば、彼らと同時代を同年代のニューヨークで生きてみたかった。もうこれは妄想でしかないが。

 1986年のデビューアルバム『Licensed to Ill』(ライセンストゥーイル)がリリースされた時の衝撃を体感したかったし、今尚名盤と言われている1989年の『Paul's Boutique』(ポールズブティック)を手に入れて「これがサンプリングなのかー!」と目を輝かせて驚きたかった。1992年の『Check Your Head』(チェックユアヘッド)で演奏された生っぽい音を聴きジャズやファンクミュージックの方に彼らがどっぷり入り始めたことにいち早く気がつきたかった。1994年の『Ill Comunication』(イルコミュニケーション)に至って、いよいよ本当にフュージョニストとしての才能が爆発してしまったと世界に向けて歓喜したかった。




《 Intergalactic(1998) / Hello Nastyより 》



 しかし現実のわたしと
Beastiesとの出逢いは2000年まで訪れなかった。
 無理もない、わたしたちには20年の差があるのだから。
 彼らがニューヨークの街でヒップホップやロックに革命をおこし、今なお連綿と続くオルタナティブミュージックの土壌を耕して、フュージョンミュージックの中で様々な実験を試みていた頃、わたしは幼稚園に通い学芸会に出演していたし、ランドセルを背負って小学校に通い給食のカレーライスを頬張っていたのだから。

 そして『Beastie Boys Anthology The Sounds of Science』を買って帰ってきた15歳のあの日、自分の部屋のCDプレイヤーで『Intergalactic』を聴き「なんだこの曲なら前に聴いたことあったじゃん!」と呟いたのがわたしの現実だし、「変な黄色の作業服を着て日本の駅で変な踊りをしてたPVの外人3人組だ!」と思い出したのが紛れもない事実だ。

 その後高校生になり、1998年の『Hello Nasty』(ハローナスティ)をようやく手にした瞬間、「せめてこの『Intergalactic』時代にBeastiesを知っていれば…」と、悔しさでぶるぶる震えることにもなった。後期のBeastiesにとって、4人目のメンバーとも言えるMix Master MikeのDJプレイにだって、後になってYou Tubeで観るのではなく、その時、その当時にファンの皆と一緒に驚愕したかった。



《 Mix Master Mikeによる超絶技巧DJプレイ / 2004年のBeastie Boys Liveオープニングアクト 》


 わたし自身が彼らの音楽にオンタイムで触れることになったのは、1999年以降に発表された3枚のアルバムだけなのだ。

 9.11アメリカ同時多発テロを受けて傷ついた故郷ニューヨークに向けて制作された2004年『To the 5 Boroughs』(トゥーザファイブボローズ)から始まり。その後、全編インストゥルメンタルで構成された意欲作の2007年『The Mix-Up』(ザミックスアップ) を聴いた。わたしがニューヨークに演技の勉強に行ったのは2005年と2007年なので、現地に降り立ちiPodクラシックで聴くことになったBeastie Boysの音楽はとても感慨深いものがあったのを覚えている。
 その後、2009年にMCAの病気のことを心配しつつも『Hot Sauce Committee Part One』の発表を楽しみに待っていた。その後、2011年にアルバムタイトルをOneからTwoに変えて発表された『Hot Sauce Committee Part Two』(ホットソースコミッティパートツー)へと続いていったのだ。



《 From Beastie Boys Official Site  / 2012年5月6日 19時41分 / By Adam Horovitz (Ad-Rock)》

 すでにお分かりの方も多いかもしれないが、Beastiesのいちファンとして、こうした思い出深い出逢いや、個人的なエピソードを語ったのには理由がある。
 今夜この時に、わたしにとってのBeastiesがどれほど偉大な存在かということを、どうしても記録として残して起きたかったのだ。


 ちょうど今日から一年前のことだ。

 Beastie Boysの唯一無二のリーダーであり、
 わたし自身の永遠のヒーローである男、
 MCAことAdam Yauch(アダム・ヤウク)は47歳という若さで亡くなってしまった。

 2009年から3年間患っていた唾液腺癌というガンが原因だった。
 アメリカ時間の一年前、2012年5月4日に家族に見守られながらMCAは息を引き取った。
 だから日本時間の今日が、ちょうどMCAの一周忌にあたるのだ。

 今思い返すと、2012年の春頃、わたしの身の周りにもBeastiesにまつわる予感めいた出来事が起きていた。今振り返れば、あれは何かのサインだったのだろうか。

(過去ログ参照 2011.4.23 { Music } Make Some Noise / Beastie Boys



Rock and Roll Hall of Fame Ceremony - 2012



 MCAが亡くなる直前に書いた有名な手紙が存在していることを、皆さんはご存知だろうか。その手紙を世界が知ることになったのは、彼が亡くなるたった20日前のことだった

 2012年4月14日に開催された『Rock and Roll Hall of Fame Ceremony 2012』(ロックの殿堂)のセレモニーで
Beastiesはついにアメリカンロックの歴史に名を刻んだ。そしてメンバーであるMike Dによる挨拶があり、Ad-RockによってMCAから託された手紙が読まれたのだった。

 このセレモニー映像は、たしか翌日頃にはYouTubeにアップされていたので、わりとすぐに見ることができた。そしてわたしはそのセレモニーの映像の時まで、MCAの病状がかなり悪そうだということをまったく知らなかった。
 今まで数々の音楽賞の映像を見てきたけれど、MCAはいつも決まってフラッと壇上に現れていた。時にはスケートボードに乗って登場したことだってある。かれはいつもクールで、渋くて、そして堂々としていた。けれど今回のセレモニーにMCAが現れることはなかった。


 以下に載せるのは、その時読まれたMCAの手紙の英語原文の写しだ。


I’d like to dedicate this award to my brothers, Adam and Mike, who’ve walked the globe with me. 

To anyone who’s been touched by our band, who our music has meant something to, this induction is as much ours as it is yours. 
To Kate Schellenbach. To John Berry. To John Berry’s loft on 100th St. and Broadway, where John’s dad would come busting in during our first practices screaming, “Would you turn that f***ing s*** off already!” 
To my loving and supportive parents, Noel and Frances Yauch, and to our home in Brooklyn where we used to practice on hot Brooklyn summer days after school, windows wide open to disturb the neighborhood. 

一緒に世界を旅してきた僕のブラザー、アダム(Ad-Rock)とマイク(Mike D)にこの賞を捧げたい。

僕たちのバンドに感動したり、僕らの音楽が何か意味あるものだと感じてくれた全ての方々にも。
この賞はあなたたちのものでもあるのです。
それから、(The Young and Uselessのメンバーだった)ケイト・シュレンバックとジョン・ベリーにも。
ブルックリン100thストリートのジョン・ベリーのアパートで僕たちが初めてのバンド練習をした時に、僕たちに向かって『そのクソみたいな音楽を止めやがれこの野郎!』と叫んできた、彼のお父さんにもこの賞を捧げたいです。そしていつも僕を支えてくれた素晴らしい両親ノエルとフランシス・ヤウク、熱い夏のブルックリンで放課後に窓を開けっ放しでバンド練習をして迷惑をかけた近所の皆さんにも捧げます。


《 MCA and his sweet, talented, loving daughter Tenzin Losel 》
 
 このように、手紙の冒頭で彼は無二のソウルブラザーであるMike DとAd-Rockへの賛辞を述べ、わたしたちファンにも優しいメッセージをくれた。それからバンドの創世記となる1980年代ブルックリンの情景に触れ、バンドメンバーだった友人たちへのエピソードを語り、今になれば笑ってしまうような些細な出来事を、彼らしいユーモアで語った。
 そして最愛の両親への感謝と、MCAを育てたニューヨークブルックリンという街へも想いを馳せたのだった。

 そしてこの後、彼の人生に喜びや慈愛をもたらした二人の女性、妻と娘に向けてメッセージを残した。それは、わたしがこれまで出逢ってきた全ての愛の告白の中で、間違いなく一番美しいものだった。それはこんな言葉である。

But most of all I’d like to thank and dedicate this honor to my smart, beautiful, loving wife Dechen

and our sweet, talented, loving daughter Tenzin Losel. 
Never has a man felt more blessed than I to be able to spend my time with my two soul mates.

しかし感謝と光栄をもって、この素晴らしい賞を捧げたい一番の相手がいます。

それは僕の美しく聡明な最愛の妻デチェンと、僕らが授かった宝である愛しい娘テンジン・ロセルです。
(妻と娘であり)僕のソウルメイトでもあるこの二人と過ごせた事ほど、
俺はなんて恵まれた男なんだろうと思うことはありません。


 そして、彼のメッセージはこのように続いた。



《 部屋の一角にこの言葉を刻んだ 》


I love you guys more than you know. 


お前たちが思うよりもずっと、愛しているよ。


 このあまりにも美しい言葉が読み上げられた瞬間、そしてその意味を悟った時、わたしの涙は止まらなかった。気道
が震え、身体に痛みを覚えてしまうほどに、心のそこからの感動と悲しみが押し寄せてきて、大量の涙が止まらなかったのだ。

 人生を共に歩んでいく家族や友人に対する真に誠実なこの愛のメッセージは、これからのわたしの人生の指針となっていくだろう。この言葉に込められた豊かな想いこそが、わたしたち人間が生きていく理由にほかならないのだ。

 MCAからファンが聞くことの出来た最後の手紙は、こう締めくくられた。

I wish I could name everyone who deserves naming, but of course there’s too many names to name. 

You know who you are, and I sent my love out to all of you. 
Your friend,  Adam Yauch


ここで全ての人の名前を挙げられたらいいけれど、多過ぎてできません。
でも皆わかってるよね、僕からの愛をあなたたち全ての人に贈ります。
アダム・ヤウクより

 そして、このセレモニーから20日後の2012年5月4日に彼は亡くなったのだった。



《 From Beastie Boys Official Site Top Page 》

 あれから一年がたった。


 正直、MCAがもうこの世にいないことが、よくわからない。
 Beastie Boysが2人だけになってしまったことも、よくわからない。
 実感がわかないのだ。
 
 けれど、あまりに早過ぎた偉大なるヒーローの死を心から悼もう。

 わたしは一周忌の今年もやっぱり、ひとり静かに泣いている。

 あれからずっと、心の中は泣き止むことができないでいるのだ。


 We love you my hero Adam Yauch a.k.a MCA, more than you know.

 REST IN PEACE.

 M.Tory




過去ログ参照
2012.8.29 Beastie Boysの妹
2011.4.23 { Music } Make Some Noise / Beastie Boys

2013/05/03

{ とり食堂 } アスパラガスとウドのリゾット

《アスパラガスとウドのリゾット》


Asparagus and Udo Risotto


近所のスーパーではアスパラガスが並んでいますね。
そういう時期ですね。

美味しそうなアスパラガスが安かったので、
何を作って遊ぼうかと色々リストアップしていたのですが、
美味しいパルミジャーノレジャーノチーズ(粉チーズとして使うチーズ)の塊を
大奮発して買っておいたので、今夜はリゾットを作って遊ぶことにしました。


《カンタレッリのパルミジャーノレジャーノチーズを削って》


リゾットって作り方難しそうで、実は意外と簡単。
なんといっても、フライパン一つで出来るから。

簡単さと美味さにハマったわたしは、今年、何度もリゾット作ってます。

野菜のリゾットを作る時、わたしが気をつけてるのは米の煮汁です。
今回はアスパラガスを使ったので、ポイントだけですが、ちょっと説明しましょ。

アスパラガスの皮は、リゾットみたいな柔らかい食感の料理にはちょっと邪魔なので、
調理する前に皮全体をピーラーで取ってしまいます。
それから、食べ易い大きさに切ったアスパラガスと
一緒に小鍋に出汁を入れて1分ほど湯がきます。
わたしはいつも簡単に早煮の日高昆布です。
(昆布出汁とかアゴ出汁とかが、日本人の味覚には合うようですよ。)

出汁が少しグリーンになると、アスパラガスの旨味が煮汁にうつった証拠かも。
そして、この煮汁でリゾットを炊くのです。ここがポイント!
皮はすぐに捨てずに、しっかり旨味としてつかってやると、
一段レベルアップしたリゾットが作れるような気がします。




《リゾットが好きなのは女子たち》



アスパラガスの独特の食感と味わいとウドは相性抜群で、
たまらないコンビネーションです。

地元のスーパーをうろうろしているわたしが思いつくくらいだから、
オシャレなレストランのシェフ達には当たり前のレシピかもしれませんが。
ともあれ、ちょっとしたお店で1000円くらい払って食べるようなリゾットは、
家でも案外作れるかもしれません。

今夜は、「おいしーおいしー」と言って、
リゾットをおかわりしてくれる女子たちがいましたから。

食べてくれてありがとね。



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