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2014/01/11

ウィトゲンシュタインは賢い

《 世界の広さも考えよう 》



"The limits of my language means the limits of my world."

 Ludwig Wittgenstein 

『わたしの言語の限界がわたしの世界の限界を意味する』

 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン


面白い人の思考や面白いこと面白い作品など、あらゆる面白いものでわたしの日々の楽しみは形成されているけれど、ここ最近、そのほとんどに対してかなり受動的な楽しみ方しかしていないことに気がついてしまった。そしてとても残念な気分になって、少し落ち込んだ。


 たとえば読書をして本の中で展開されている物語や思想を楽しんでいても、そこに書かれている内容に対してただ受け手として聞くだけ読むだけになってしまっていて、あくまで受動の状態でわたしの読書は完結してしまっているのだ。何かについて考えるとか、何かについて気になるとか、そういう脳みそをフルにつかった取り組みへの熱心さが以前よりも薄まっていることに気がついてしまって、落ち込んだというよりも少し焦ったのかもしれない。
 わたしの姉はいわゆる高学歴な人で、国内トップの進学女子校を卒業して渡米しアメリカの西海岸にある有名大学に進んだ後に6年後帰国、現在は日本の外資で出世中というキャリアの持ち主なのだが、彼女は『あの人ってすごくおもしろい』と言いたい(であろう)時に『あの人ってすごく賢い』という表現をよくつかっている。そこに嫌みっぽさはあまりなく、おそらく彼女の本音だし最大限の賛辞として賢いという表現をつかっているみたいだ。わたしは姉がこの賞賛の言葉をつかっている時に、その表現をつかう姉の存在が身近すぎた為か今まで特に気にも留めてなかったけれど、ここ数週間は妙にソワソワと気になって仕方がない。どうも、あまり脳みそをつかっていなかった近頃の自分が、このソワソワには関係しているみたいだ。

 とはいえ、わたしの賢さが足りないということに関しては別に今にはじまったわけでもなく、わたしは学生時代からこれといって突出して頭が良いほうではなかった。地元の公立中学を卒業して”中の中”くらいの高校に通い、受験勉強をすることもなく映像表現の専門学校に通い、卒業後の数年間は映像職で右往左往したけれど結局20代の後半はフリーター生活をしてきた。その間、わたしは一度も賢さによって成せる達成を経験したこともなければ、賢い人の優れた思考回路に感動した機会も少なかったような気がする。賢さを感じる為に必要な賢さをわたしは持ち合わせていなかったのだと思う。
 こういうことを書いていると、「学力と賢さは必ずしも比例していない」と言われてしまうかもしれないが、一方でこれらは反比例しているわけでもないと思う。それにやっぱり確率的には、一般的な学力がある人の方が『考える力』を持っているような気がする。学力のある彼らを形成する基盤において、日本の受験を乗り越えてきたということは、考える為に必要なつかえる脳みそを鍛え上げてきたという経験なのだと思うから。つまりわたしが言いたいのは、歴史の年号を暗記できたとか数式を覚えているということに敬意をはらっているのではなく、年号を覚えるにはどうすれば良いだろうかとか、簡単な数式を応用して高度な問題を解けないものかみたいな、問題解決へのアティチュードを自分で形成していく過程でこそ得られる知力が、その後の社会に出た時の賢さに繫がっているのではないかということだ。何も受験勉強だけがその知力を養える機会ではないと思うけれど、10代においては絶好のシチュエーションではないだろうか。そういう点で、わたしは10代の頃少々サボってきた組なので自分の知力の基盤が緩い。読書や人との出逢いなどの経験で、多少の補修工事をしてなんとかこれまで凌いできたけれど、考えることを一度サボりだすと、基盤が緩い分崩れるのが早いのかもしれない。「わたしはもう倒壊寸前です」とまでは言わないけれど、自分のハリボテ感には多少嫌気がさしているのは事実だ。30歳を目前にして、『考える力』が30歳以降の人生における充実感や濃度を左右するような気がしてならない。感受性の方の素養は多少なりともあるみたいだから、これからはもっと意識的に『考える力』を鍛えていこうと思う。

 昨年まで、職場でのパワーハラスメントやモラルハラスメントに悩んだ時期があって「考えすぎて辛い、夜も眠れない」みたいな状態が続いて、きつい時もあったけれど、今更ながら『悩むこと=考えること』ではないなと思い至った。悩みというものの内容物を紐解くと、そこには思考の他に感情がブレンドされているからだ。
 わたしを含め、悩みがちな人ほど、思考と感情の線引きが下手だなと最近よく思う。少々ドライになっても良いことでも感情が邪魔をして妙な逃げ道をつくるものだから、堂々巡りの思考と感情の螺旋が完成し、抜け出せなくなってしまうのだ。悩み続ける悪い習慣を持っている人の多くは、「わたしにも悪い所があるし」といった類いの謙虚さを持っている美徳がある。けれど、最初は素直なはずの謙虚さが、いつしか転じて臆病さや自己否定にまで発展し、そのまま悩み続け、最後には多くの人が自分を自分で追い込み、精神病になるのだと思う。
 幸か不幸か、わたしは若い頃から人間関係の試練に直面する機会が多かったので、この歳になってようやく悩むことに対する免疫力が多少はついてきたと思う。だから、パワーハラスメントを受けていた時も辛かったけれど、精神病にはならなくてすんだ。
 でも今後のためにも、もっとタフさは必要だと思うので、『悩み=感情+思考』なんだということを、あたかも科学的な根拠かのようにシンプルに理解するようにしている。根拠があれば、原因不明の不安に振り回される頻度も少ないはずだから。

 例えば前述の、悩みに関する整頓された思考手順でつかったような『考える力』が、現在のわたしが理想とする賢さの一端にはあると思う。もちろん賢い人でも精神病になるし、賢さが仇になって人生損してる人格破綻者ともわたしは出逢ったことがあるので、賢い人がいちばんすごい・バンザイ・完璧・最高・愛してる!ということを言いたい訳ではないのだけれど、考えるという行為や、考えたことを言葉や形にして何らかの伝達手段でもって誰かと共有するということは、30歳以降、自分を磨いていく為には重要なのだと思う。
 そもそもわたしは、セセコマしい日常風景を公開ブログとしてひっそりと書いているような奇特者なので、お金のかからない趣味くらいの気分で『考える力』を鍛えるという行為に今年から力を注いでみようかと思う。それで少しは文章が上達すれば一石二鳥ではないか。

 冒頭に載せたのは、英会話の勉強中に思い出した哲学者ウィトゲンシュタインの格言。当面は、この『言語』が意味するものについて、思考してみようかと思う。

 これを読んでくださった奇特なあたな様にとっての賢さとは、一体なんでしょうか。



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